小平先生の数学と人間像

                          飯高 茂

[1.   略歴]小平邦彦先生は1915年3月16日東京生まれ。

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[3.   1938年東京帝国大学理学部数学科卒、

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[10.                            1941年同物理学科卒。

 

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[15.                            1943年から東京帝国大学理学部助教授、1949年理学博士。同年渡米し、プリンストン高級研究所、プリンストン大学、ハーバード大学、ジョンズホプキンス大学、スタンフォード大学にて研究員/教授を歴任。1967年東京大学理学部数学科教授に復帰。その後東京大学理学部長にもなる。1975年から85年まで学習院大学理学部教授。1990年に京都で開催された国際数学者会議の組織委員会会長。1977年から刊行された基礎数学講座(岩波書店)の監修をつとめ、かつ自ら筆をとって解析入門、複素関数論、複素多様体論を著した。さらに、普通教育の数学の教科書の監修・執筆をし、それに加えて幾何の入門書などを書き数学の啓蒙普及にも力を注いだ。先生の数学上の業績に対して、日本学士院賞、文化勲章、フィールズ賞、藤原賞、ウルフ賞が授与された。1997年7月26日に山梨の病院で死去。

 このような経歴を見ると大学者の順調で安らかな生涯が想像されるが、日中戦争と第2次世界大戦が起きた困難な時期に学究生活が始まったこと、ご長男の夭折という不幸にあったこと、戦後間もない1949年にアメリカに渡り18年に及ぶ研究生活を送ったこと、帰国後は大学紛争のとき、学科主任の経験がないまま理学部長をさせられたことなど、立ち入って見てみると波乱万丈の様子が見えてくる。しかし先生の作られた数学の世界はさらに波乱に満ちそして豊饒そのものであった。

 

[2.初期の仕事]小平先生が欧文で書かれた数学の論文は1975年に還暦を記念して出版された K.Kodaira Collected Works I,II,III(岩波書店、プリンストン大学出版局)にほとんどすべて収められている。それぞれ、647ページ、493ページ、466ページであり総計1700ページを超える膨大な論文集である。小平先生の数学を総覧するにはこの論文集を見るのがいい。しかし、多くの分野にわたって高度な理論が展開されているから、通読するなどといったことは不可能であろう。Baily 教授(小平先生の最初の学生)によって書かれた論文集の序文で小平数学が手際よくまとめられているのでこれを見るのが便利である。第1巻の前半分には数学者としてスタートした頃の論文が集められている。第1号の論文は1937年(数学科の学生の頃)に書かれ、有限の非可換環の構造を決定したもので純代数に属するものである。続いて位相幾何、群論、次元論、ヒルベルト空間、概周期関数などいろいろな分野にわたって書いている。中でも有名なのは、群の位相と測度の問題を論じた長編である。

 1942年頃から高次元のリーマン多様体上の調和テンソル場(後の言い方にしたがえば、調和微分形式)の問題に本格的に取り組み、その結果の要約が1944年に「リーマン多様体上の調和テンソル場I,II,III」という題で帝国学士院紀要に発表された。それは戦時中のことでありドイツ語で書かれていた。小平先生の初期の論文はドイツ語で論文を書かれているが、米国生活を18年続けるうちにすっかり忘れてしまい「ドイツ語の論文を自分で書いていたことが不思議でならない、よく書いたものだ」と言われたことがある。調和テンソル場の理論は結果だけ発表されていたが本論文の執筆は後回しになった。戦後の困難な生活の中で全力をあげ超人的な努力しついに完成した。角谷静夫氏(後にエール大学教授)の紹介があり進駐軍(アメリカの日本占領軍のこと)の人を介して、その論文がプリンストン高級研究所の Weyl 教授のもとに届けられた。それがきっかけになり、 Weyl 教授は小平先生をプリンストンに招聘し、滞米18年の研究生活が始まるのである。

 

[3.調和積分論]19世紀の中ごろ Riemann は代数曲線という具体的なものを離れて一般に抽象的な考察をし現代いうところの多様体の概念を導入した。その後、位相幾何学などの発展を受けて Weyl がより厳密に取扱い「リーマン面の概念」という本を著した(1913年)。そこにおいて解析多様体の基本概念が確立され、その上の自明でない複素解析関数(有理型関数)の存在が示された。それを示すために複素関数を実部と虚部にわけそれらを2次元の調和形式として認識し、与えられた1点でのみ特異性をもつ調和形式の存在をディリクレ原理を用いて証明する。これから、複素解析関数の存在が示される。

さらに、各種の微分の概念が導入され、関数と微分の個数の間の関係式を与えるリーマンロッホ(Riemann-Roch)の定理が証明され、これらを用いて、閉リーマン面は代数曲線であることが証明される。さらにリーマン面の一意化の問題が取り上げられている。しかし、これは1次元でしか成立しない。 Weyl はこの本を書くことによって混沌とした世界に秩序をもたらし、次代の新理論の展開を待ったのである。

 小平先生は驚くべきことに、戦時下ということもあり全く独力で Weyl のリーマン面の理論を高次元に展開する事に成功したのである。高次元リーマン多様体の上に特異点をもつ自明でない調和形式の存在問題を定式化し、直交射影の方法を用いて証明し、さらに調和形式の空間の次元の関係式としてリーマンロッホの定理を捉え、これを証明した。「一般化されたポテンシャル論」と副題をつけられたこの論文は Weyl により impressive paper と呼ばれ讃えられた。アムステルダムで開かれた国際数学者会議(1954年)で小平先生はフィールズ賞を授与される。受賞者選考委員会は Weyl を長とし、H.CartanTitchmarshOstrowski らを委員とする豪華なものであった。同時に受賞したSerreは弱冠28歳であった。

 

[4.消滅定理]1変数(1次元)と異なり多変数(高次元)の多様体はその構造がはるかに複雑になる。せっかく証明した特異点のある調和微分形式の存在定理からは自明でない有理型関数の存在を導くことはできない。実際、もっとも簡単な複素多様体である2次元トーラスすら一般には有理型関数が存在しない。有理型関数が沢山あるときどんなことが分かるか、また有理型関数の存在しうるのはどんな場合か、さらには複素多様体が代数的になるのはいつか、などが問題になる。これらの問題への挑戦がその後の小平先生の研究目標となる。ケーラー計量のある場合には調和微分形式の理論(調和積分論ともいう)がカレントなどを使って展開でき(de Rhamら)、複素多様体の研究がケーラーの場合に有効にできる。一般の複素多様体でケーラー計量の存在を仮定することはそれほど強い制限にはならない。実際、射影的多様体はケーラー計量をもつのである。Hodge の理論を参考に研究が進められらた。まず、2次元(曲面という)ケーラーの場合にリーマンロッホの定理が定式化でき証明された。これこそ正しいリーマンロッホであった。実際にこれを用いてケーラー曲面は有理関数が沢山あれば代数的になるという定理が、Chow教授(ジョンズホプキンス大学)との共同研究の結果、証明された。これによって、2次元リーマンロッホの定理の正当さが分かった。

 この頃、プリンストンで Spencer 教授の積極的な努力により、層の理論の複素多様体への応用の研究が活発に展開された。小平先生も最初のうちは「層とは何か変なものだ」と感じられたそうだ。しかしついに高次コホモロジー群が消えることをある簡単な条件の下で示すことに成功したのである。この条件は一種の正値性であって、微分幾何での Bochner の公式をモデルにした計算により高次コホモロジー群が0になることが示されるのである。

 小平先生は「何でもなくできてしまった。とても簡単なことです」とよくいわれた。しかし、小平先生は非常な努力をし渾身の力を振り絞って超人的な研究をするが、数学的な世界が見通せる不思議な能力に富んでいたので、数学的自然の世界がよく見え、そのため、奮励努力することが苦にはならなかった。それでこういった言葉がでたのであろう。

 正値性から高次コホモロジー群の消える定理が、消滅定理(vanishing theorem)であって、これからいろいろな幾何学的事実が導かれる。その1つの応用として、ある種の条件を満たすケーラー多様体(特にホッジ多様体という)が代数的となる(もうすこし強く、射影的になることまでわかる)ことが示された。これこそ、閉リーマン面は必ず射影的になるというリーマン面論での基本結果の究極の一般化なのである。この研究から多くの新理論が産まれた。まず、正値性の条件がより代数化され可逆層の豊富性の概念が導かれる。これにはもうひとりの受賞者 Serre の貢献が大きい。射影的かどうか分からない多様体についても正値性を仮定すると消滅定理ができて、結局射影的になるというのが小平先生の定理であるが、一度射影性が証明されれば、それを梃子にして豊富な可逆層に関連した消滅定理がはるかに強い形で定式化され証明される。70年代の後半からその方向で著しい成果が 宮岡、Viehweg、川又、Kollar らによって続々と達成され、高次元の代数多様体の構造が次々に明らかにされた。これはポスト小平の時代のことであるが、高次元の代数多様体の分類理論の(森重文氏ら日本の代数幾何学者によって主導された)大発展も結局その根は小平先生の手の中にあり、それから発展したといえよう。

 

[5.変形論]小平先生の業績を一言でいえば、複素多様体論の確立である。50/60年代に複素多様体論は一大発展のときを迎えるが、小平先生によれば当時の中心問題は高次元のリーマンロッホの定理を定式化し証明することであった。小平先生も3次元の場合のリーマンロッホの定理などを論じている。一方、解析的層の理論の進展は有力な武器であった。小平先生は層の理論を発展させて、その昔 Severi教授が遠くの恒星を引き合いに出してその困難さを強調した算術種数の問題を見事に解決して、数学界にセンセーションを巻き起こした(1952年の頃)。しかし、リーマンロッホの定理の正しい形を捉えたのはドイツからプリンストンにやってきた若い数学者 Hirzebruch であった。彼は射影多様体の上の可逆層のオイラーポアンカレ指標がToddの種数に一致するという形にリーマンロッホの定理を定式化した。Hirzebruch Todd 種数を含むいろいろな帰納的な多項式を数多く計算しその結果正しい形を見いだしたのである。小平先生から「Hirzebruchは変な計算ばかりしていると思ったら、そのうちできちゃった」という述懐を聞いたことがある。中心問題の解決は逃したが、小平先生は複素構造の変形論(deformation)という大理論の建設に入る。

 変形の理論は閉リーマン面のモジュライの問題の高次元化と深く関連するがその数学的思想はもっと深い。数学思考の1つの枠組みとして、構造の変形論がその地位を確立したのである。多様体のモジュライ数とある種の1次コホモロジーの次元には密接な関係があるという話しが出てきた。「こんな幼稚な考えではどうせ駄目だろう、だからやってみて反例ができたら終わりにしよう」という動機で研究をしていたら大きく育って変形理論ができてしまったという。これが、小平−Spencerの理論で、全集第2巻の後半分を占める。小平−Spencerの理論は後に理論物理でも使われるようになった。かって物理科の学生でもあった小平先生自身この事実をたいへん不思議がった。理論の創設者として、先見の明を自慢しても当然なことであったが、先生はあくまで謙遜で飾らない人なのであった。

 

[6.小平曲面論]憶測することが許されるなら、小平先生は変形理論よりも全集第3巻で展開されている、2次元理論すなわち曲面の構造の理論が好みだったように思われる。代数曲線の一般論はドイツで展開され引き続いて代数曲面も研究されたが曲面は複雑怪奇のものとして敬遠され、何が本質的問題かもわからなかった。今世紀始めにイタリアで曲面が詳しく研究されついにその本質が明らかにされるにいたる。これがイタリア学派(Castelnuovo,Enriques等)による代数曲面の分類理論である。これを受けて代数的な見地から Zariskiが現代的な立場に立った研究を詳しく行い小平先生にも強い影響を与えた。2次元の複素(解析)多様体は解析曲面ともいうが定義の上からは代数曲面を含む。解析曲面の上に(有理型)関数が十分沢山あれば、代数的になるというのが小平−Chowの定理である。少しだけ有理型関数がある場合には楕円曲面の構造が入ることが小平先生により証明され、これをきっかけに楕円曲面の構造の研究が開始された。小平先生が学生時代によく勉強した楕円関数の理論が不思議なくらいうまく使えて、楕円曲面の構造が明らかにされた。小平先生は夏目漱石が『夢十夜』で運慶が仁王を刻むときの話しになぞらえて当時の研究の心境を説明した。鑿で木から仏像を彫るのではなく、木に埋もれている仏像を取り出すという例えである。先験的に存在する美しい楕円曲面論を小平仏師が掘り出しただけだというのである。

 楕円曲面の理論を中軸に据えて、一般に解析曲面の構造が詳しく研究されついにその基本の構造が見事に明らかにされた。代数的な場合には5つの型があったが、それに2つの型をつけ加え7つの型に解析曲面が分類されたのである。ここで後に小平曲面という名前がつく2種類の曲面が現れる。さらにこの曲面がもとになって、Kodaira-Thurston 多様体という4次元実多様体が後になって定義され現在も活発な研究が行われている。しかし、最も難しいのが第VIIのクラスであり、そこに属する曲面の真の姿はホップ曲面以外は見えないままであった。後になって小平先生の学生である井上政久、加藤昌英、中村郁らによってその姿が徐々に明らかにされるにいたる。

 小平先生の公刊された論文は1971年のネバンリンナ理論を多様体上に展開した論文で終わる。しかし、帰国してから書かれた1968年の論文「一般型の曲面の理論」の続きの研究ができていて「一般型の曲面の理論II」と題されていた。タイプされた原稿を私たちは受け取っている。しかし印刷に回すのが面倒になったのであろうか出版されないで放置されてしまった。なにしろ小平先生にとって慣れない上に、はなはだ不得手な理学部長などをさせられ、雑用で多忙になってしまったからである。

 

[7.学術用語Kodaira]小平先生の数学がその後どの程度数学の発展に影響したかをを調べるため、数学のレビュー誌(Mathematical Review)のCDRDOM版(1940−1996年まで)を使い Kodairaをキーワードにして検索してみた。すると、957の「Kodaira」がでてきた。よく見てみると、Kodairaのうちのいくつかは津田塾大学や朝鮮大学校の所在地名としての小平である。また小平姓の別人もいるから、単にKodairaをキーワードにして検索すれば済むというわけではない。そこで, Kodaira の前後に空白と単語があるもの、さらに、Kodaira--Kodairaを検索してみた。すると Hodge-Kodaira も Kodaira-Hodge もでて来る。これらはどちらかにまとめるのが適当であろう。こうしてできたのが次にかかげた表である。左側の数字が引用されている回数を示すのである。

 

320 Kodaira dimension

101 Kodaira-Spencer [theory /map/method]

63 logarithmic Kodaira dimension

60 Kodaira vanishing theorem

21 Kodaira-Thurston manifold

16 Kodaira surface

14 anti-Kodaira dimension

14 Kodaira classification

12 Kodaira embedding

12 Hodge-Kodaira [decomposition]

11 Kodaira singularity

11 Kodaira energy

11 Enriques-Kodaira classification

10 Akizuki-Kodaira-Nakano

9 Kodaira-Titchmarsh [theory/formula]

9 Bochner-Kodaira [technique/formula]

7 Kodaira-Neron

6 de Rham-Kodaira [decomposition/theory]

6 de Rham-Hodge-Kodaira

6 Kodaira number

6 Kodaira map

6 Iitaka-Kodaira

5 Kodaira-Parshin

4 Kodaira-Picard type curve

3 Kodaira-Weyl

3 Kodaira-Nirenberg-Spencer

さらに2回だけのものが15語、1回だけのものが30語ある。

 

[8.小平次元縁起]1967年4月から東京大学理学部数学科の教授に復帰された。私は当時、東京大学理学部助手になったばかりであった。小平先生が来てくださるというのは何という有り難いことであろう。私達は夢でしかないことが現実になることに信じきれない思いがした。当時私は小平先生と同じ階に研究室をもっていた。夕方5時頃になると小平先生がいつも部屋の前に現れて「飯高さん、暇ですか、そろそろ帰りますか」と言われるのである。そして、ほとんど毎日小平先生と一緒に帰宅するようになったが、途中で「ちょとお茶でも飲みましょうか」と言われ、コーヒー店かケーキ屋さん(本郷3丁目にある近江屋)に寄るのが常だった。先生はまずケーキを楽しそうに選び、それからコーヒーとケーキをゆっくり味わわれ、いろいろな話しをして下さり、また私のつたない数学の話しもよく聞いて下さったのである。曲面の構造論ではイタリアの幾何学者が最初に注目した多重種数Pmが重要な役を演じる。小平先生の論文を読んでいるうちに私は「多重種数は変形不変に違いない」と思った。小平先生にそのことを話すと「え、そんなことがありますか」と感心されるので、正直のところ私は焦った。そんなはずはない。小平先生ならすべて見通していて、変形と多重種数の関係などよく知っているから書くに及ばないと思っているに違いない。小平先生に聞いてみれば「それはそうでしょう。やればできるでしょうね」と言われるのが落ちになるのではないかと思っていたのである。しかし、実際にはそうならず、小平先生のような大先生から「えっ、そんなことがありますか」と感心してもらえた。こんなに大きな励ましは他にない。それから1年余りたちもう少し研究が進んだ。いつものように小平先生とコーヒー店にいた私は書きかけの論文(D次元について)を取り出し「この研究は小平先生の楕円曲面の多重種数の公式から生まれたものですから、標準次元ではなく小平次元といいたいのですが」とお願いしてみた。すると「へー、そうですか」と言われる。しめしめ断られなかったと思いこう付け加えた。「今日のお金はぜひ払わせて下さい」。そして生まれて初めて小平先生にケーキをおごったのである。たしか600円だったと思う。

(彌永先生は原稿を詳しく読んで下さり、多くの貴重な助言をして下さった。特に記して感謝申し上げる。)