電卓に遺されたママの像
晩年の小平邦彦先生ご夫妻
飯高 茂
(数学のたのしみ19号14−19 2000年)
電子手帳で遊ぶ
もう5年近くもたってしまったが夏休みに入って間もないある日、中落合にあるお宅を訪ね小平先生と四方山話をした。話がとぎれたとき私は電卓(電子手帳 RX−10)を取り出して自慢をした。こんなに小さいけれど中に英語と国語の辞書が入っていること、手書き文字が認識できてうまくいくときは実にうまくいくこと。さらにトランプゲームが3つできることを見せると、小平先生は「これは驚きましたね」と感心することしきりだった。セイ子夫人もそばで「パパ、おもしろそうじゃない。でもイイタカさんくらい若くないとできないかしら」などと言われた。「是非買ってみたい、型番号は何ですか」と言われた。近所の電機屋さん(小平先生がオーディオ器機の購入で世話になっていたお店)に頼んでみるとのことであった。
私が持ってきたこの電卓を差し上げてもいいし、先生のために新しいのを買って届けてあげるくらいのことをしたいところだが、そういうお節介は先生の好みに合わないのである。
冬休みに入った頃またお宅に伺うと「あのゲームでは何点くらいとれるといいのかなあ」などとおっしゃるのである。夜も更ける頃になると、電子手帳のトランプゲームに夫人と興じるようになったのだそうである。「指先と頭を使うからぼけ防止になるわね」とセイ子夫人もにこにこ話してくださる。
「イイタカさんは何点くらいとれる?」「私は点が出るところまでは行きませんよ」「やはり、お忙しいのね」などの会話がはずんだ。
「絵も描けますね。」と言われて手書きメモを見せてくれた。「ほらこれがタヌキの絵」。確かにそこには、小平先生が電子的に描かれたタヌキの絵があった。 チコという名前でネコの絵も描かれている。先日お孫さんが来たときおじいさんの絵を電卓に描いてくれたとかでそれは「似顔絵」という名前で保存されていた。「孫はすぐ使えるようになりますね。」といわれた。この一言から先生も手書きメモを使うのに結構苦労したことが推察された。同じ電子手帳でも、私は辞書とスケジュールの機能を主に使い小平先生はゲームと手書きメモを使う。使う機能が全くかけ離れているのが面白かった。
小平先生の教育論
小学校教育に電卓を導入するという風潮に対して小平先生は断固として「No」と言われた。初版が1986年に出され、1997年には第7刷りがでた『怠け数学者の記』(岩波書店)の中に「New
Math 批判」、「数学教育を歪めるもの」(月刊『文芸春秋』1975年8月号初出)等の論文があり、特に後者は明快で本質を的確に述べた卓論である。「計算技術の訓練が重要」「電卓は文明を亡ぼす」等の節の中で数学教育の本質を簡潔に述べている。
「電卓は文明を亡ぼす」の冒頭では
「最近、小学生に電卓を使わせることにして、数の計算の練習を止めさせようという動きがあると聞く。計算の練習のような機械的でつまらないことはやめて、その代わりにもっと大切な数学的なものの考え方を教えようというのである。とんでもないことである。」と述べ、さらに258頁の3行目から
「そもそも計算を抜きにした、数学的なものの考え方があると考えるのはおかしな話である。小学校で学ぶ数の計算は中学校で学ぶ代数的な計算、高等学校で学ぶ微積分の計算の基礎となるものであって、計算の練習を通していつの間にか数学的な考え方を学ぶのである。式の計算は数の計算を抽象化したものであるから数の計算を十分にこなしていなければ式の計算は分からない。」
と書かれており極めて説得力がある。1997年に久しぶりに増し刷りされたが、ときはまさに次期教育課程の改定期にあたっていた。小平先生の教育論が再度読まれ研究されて数学の次期学習指導要領の作成上において指導原理の1つとなったことは想像に難くない。
HP(ヒューレットパッカード)社
私たちの間では小平先生がもっとも早く高性能電卓に触れ、その意義を高く評価された。東大を退職された頃、HP社の科学電卓を入手され「これはすごいですよ。が計算できるし、三角関数だってできます。」と教えてくださった。10万円もする機械なので我々には手がでなかった。関数電卓が身近にあれば今まで面倒で出来なかった計算が日常的にやれるのである。3億円事件が起きたとき3億円を銀行に預けると1年いくらの利息がもらえ、それを毎日使うとすれば平均いくら使えるか等が直ちに分かると言われたりした。セイ子夫人にも電卓を用いていろいろな説明をされていた。このような科学に関係した話を喜んで聞いて、話を合わせることのできる夫人はすごく偉いひとだと思う。こういうことは若い人には理解しづらいことであろう。
学習院大学の教授を定年で退かれた後、イスラエルの賞であるウルフ賞を授けられることになり、次女のマリ子さんとともにイスラエルに行かれた。これが最後の海外旅行となった。先生は「海外旅行は面倒ですね。TVで海外の景色を見る方がよほどいい」と言われるほどの出不精であるがウルフ賞の授賞式にはきちんと出席しなければ失礼になるからと無理を押してられたのであった。
ウルフ賞受賞記念に私たちはパピコン(NEC製)を買って差し上げた。音のプログラムをいじって「小平先生、ウルフ賞受賞おめでとうございます」としゃべるようにしておいた。これには感心してくださったが、パピコンはじきにお孫さんのおもちゃと化したようで先生は依然としてHPの関数電卓の愛用者であり続け「あれは税金の計算に便利ですよ」とよく言われた。
晩年の頃
退職してからは日本学士院会員としてのお仕事が唯一の公務であったが、ご自宅のキッチンを書斎代わりにして多くの数学的著作を書き続けられ、平穏な日々が続いたいた。しかし、ICM90(国際数学者会議)の組織委員会の会長を引き受けざるをえなくなった。「何もしなくていい」という約束だったようだが、組織の最高責任者として募金を含む重責を進んで担われ開催のために心血を注がれた。1990年に開催されたときには会議に出席するだけの体力が残されていなかったのは痛ましい限りである。その後、健康が優れないことが多くなり、セイ子夫人の手厚い心のこもった看病が続けられた。
1997年7月末、小平先生は山梨の病院で亡くなられた。痛哭の極みである。半生をともに生きた夫人の悲しみはいかばかりであったろう。日経サイエンス社から出された小平先生の半生の自叙伝『ボクは算数しか出来なかった』(1987年)にはご自身の結婚に触れた箇所がある。67頁最終行に
「私は昭和18年の5月30日に藤原咲平先生の御媒酌で現在の妻セイ子夫人と結婚した。新婚旅行は配給米を持参して箱根の強羅へ行った。」
とある。その前の59頁ではなれそめについてふれている。小平先生はピアノを中学3年の頃から弾きはじめ相当な腕前になっておられた。中島田津子先生というバイオリンの先生についてピアノを習ったことがあり、田津子先生のお弟子さんのバイオリン演奏のためにピアノの伴奏を頼まれるようになった。その中のおひとりに彌永昌吉先生の妹さんであるセイ子さんがいらっしゃったのである。(戸籍上の名前は「せい」であるが小平先生は「セイ子」とよく書かれていた)。音楽を共通部分にもったお二人が結ばれ、数学者の家庭としてまことに模範的な愛情深い家庭が作られたのである。戦中、戦後、またアメリカ、日本、東大、学習院大など環境の大きく変わる中で多くの困難に逢いながらもこのようにすばらしい家庭を作られたことは小平先生の数学上の業績にも匹敵する立派な仕事である。これを可能にしたのはセイ子夫人の生得の、高貴でありながら飾らない率直な人柄であった。夫人が学ばれた香蘭女学校や聖心で「人のために奉仕すること」を厳しく教えられたことも影響していることであろう。
ふたたび電卓
97年の末、セイ子夫人にお願いして私の家族とあるホテルのレストランで食事をともにさせていただいた。井上政久さんも一緒だった。その席に電卓RX−10を持って来られた。「夜になると、思い出してはゲームをすることがあるんですよ。ハイスコアを更新したりすることもあるの。」とセイ子夫人は語られた。「ここにはパパの絵もあるのね。ほらタヌキの絵が出てくる。でも機械の調子が悪くて。電池を替えたのにタッチしてもうまく行かないことがあったり。これが使えなくなるとパパに悪いみたいでつらい。」そこで手にとって調べて見ると、ペンタッチの反応が良くない。RX−10は使い込むと、突然凍り付くことがある。リセットすれば回復するがデータが消えてしまう。「調子が悪いですね。壊れたら知り合いのカシオの技術者に頼んで直してもらいますから心配はいりません。」と言った。さらに見てみると、手書きメモのファイル名に『ママ』というのがある。それを開くと小平先生が手書きメモでセイ子夫人を描いた絵が出てきた。「ほらここにママの絵がありますよ。」と言ってお見せすると「えっ、こんなのがあったのですか。まあ驚いた!」 しばしの沈黙が続いた。電子媒体や電子機器を通し夫婦間の愛情が時空を超えて伝わったのである。これは人生の名場面といえよう。後にカシオの技術者に連絡した結果、無料で修理し内部のデータを保存してくれたのであった。
韓国語訳のこと
1998年8月に韓国で第1回東アジア数学教育国際会議が開かれ、私は元檀国大学校副学長の金炯堡教授とそのお嬢さんでやはり数学の教授をしている金聖淑さんに会うことができた。美味な本場の焼肉をごちそうになったとき金炯堡教授が「小平先生の数学教育についての卓見を是非韓国の人たちに伝えたい。岩波書店から出た先生の本を韓国語に訳す計画がある」と話を切りだした。私は「是非出してください。韓国の先生方が小平先生の考えを理解するようになるとよいでしょう」と応じた。
帰国後直ちにセイ子夫人に電話してこのようなことを言った。「私の旧知の金炯堡教授が『怠け数学者の記』を韓国語に訳したいといっています。奥様から『よろしいです』と言ってほしいそうです」。すると、とてもさわやかに「ええ結構ですよ」と言って下さった。その口調は本当に優しく思いやりに満ちたものであった。金教授に直ちに伝えたのはもちろんである。その後「小平先生の写真を載せたいから送ってほしい」、また「イイタカさんの推薦文も載せたいからすぐ書いて送ってほしい」など金教授から数回連絡があった。
99年8月末のある日の夜、突然電話がなった。取ると懐かしい金炯堡教授の声である。「小平先生の翻訳がほぼ終えたが、最後の校正をするのに必要だから小平先生の本を送ってくれませんか。実は今病院にいる。首から脳に行く血管に瘤ができてしまい手術をすることになった。うまく行く確率は50%位だ。」そこで、少しあわてて「それは大変ですね。手術は必ずうまく行きますよ。本はすぐ送ります。直ってから完成した本を持ち小平先生のお宅を訪ね奥様に本を捧げましょう」と伝えた。
セイ子夫人に『怠け数学者の記』の翻訳が訳者の病気で遅れていることを伝え、体が直ったら当の本人が完成した本を持って奥様を訪ねたい気持ちを持っていると付け加えた。金聖淑さんからは手術の成功が伝えられた。11月に入ると「近々父は退院する。翻訳もできたので本を持って、クリスマス前に東京に行きたい」との連絡が入った。来日して12月13日に小平先生宅を訪問することが決まった。その日はいかにも東京の冬らしく明るく暖かであった。金教授は日本生まれの夫人と、娘の金聖淑さんとともにおみやげらしい荷物をかかえて学習院大学に現れた。持っている荷物が尋常の大きさではない。小型冷蔵庫ほどのものを2つも持っているのでびっくりした。その午後、4人で小平先生のお宅に伺い玄関にたった。するとセイ子夫人と次女のマリ子さんが迎えてくださった。以前なら必ず小平先生自身がおられた居間に案内され、そこでお互いに紹介しあった。そして完成したばかりの本の贈呈がありセイ子夫人は日本茶と和菓子を出してもてなしてくださった。金教授は「お会いできて本当にうれしい」といい「奥様は本当にノーブルでいらっしゃる。本物の貴族ですね」と繰り返えし言われるのでセイ子夫人も困ってしまわれた。傍らではマリ子さんと金聖淑さんとの英語の会話がはずんでいた。
小平先生を尊敬してやまない老教授が命をかけて訳出した本が完成し、東京にでてきて夫人に本を捧げることができた。これは奇跡的なことではないか。私はこみあげてくる感動を押さえきれなかった。これも人生の名場面の1つであろう。お互いに写真を撮りあい再会を約して別れたのであった。
その後でセイ子夫人は金先生とともに撮った写真を送って下さったし、年賀状も元旦にいただいた。
1月11日夜、セイ子夫人が安らかに急逝されたことを知らされた。あまりにも突然のことで私たちは本当に信じきれない思いであった。
(いいたか しげる 学習院大学)